遺書代わりのブログ

2025年。元気で生きていたい。

上杉鷹山

江戸期、武士の人数は石高の0.5%が目安です。だだ今の公務員と大きく異なるのは家来を抱えていることでしょう。 その家来を引き連れて合戦に行くのですが3%が目安ですが、実際は荷駄とか救護、立身出世の人も入れ賑やかなようです。


さて、上杉謙信・景勝の頃は120万石の大藩になりましたが、関ヶ原合戦後は直江兼続の領地米沢に30万石に押し込められてしまいました。( 百年後、赤穂事件で半分になりました)  120万石の武士数は6000名(5人家族として、3万人)、家来数は36000-6000=300000
平和続きとして正味1万人にとしても、米沢藩30万人のうち4万人が御武家様ということになるでしょう?  120万石のまま武士団が辞めることないままに米沢に居住したという。本来ならば武士1500、家来5000としても総数12500人位でしょう。2万人程の余剰人口を逆に上手に転用したようです。


山形は織物、牛、鯉が名産です。上杉鷹山は地方に販売することを奨励しました、明治維新周囲の藩が没落したのにもかかわらず米沢特産品は今の世にも継続している。
おまけ。武家の女達は蚕、製糸、機織り、縫製をした。老人、子供達は餌やりなど小銭が入るようになりました。武士というのは字が書けて、剣道ができるだけではない。まして女房衆も~~なんてな。

×

非ログインユーザーとして返信する