生々流転
明治期、時計職人だった山葉兄弟、ある日オルガンを作り東京まで運んだが音が狂い再組立をしたという。戦争中は軍需工場だったが、戦後フランスのルノー社の 「これからは小型車でいこう!」を聞いて、オートバイを製造販売した。“ ヤマハ “ である。( ピストンリングを納入していたのが本田宗一郎です。)
鈴木織機も軍需工場でしたが、やがて軽自動車を製造販売、“ スズキ “ です。
家具工場の片隅で、郵便運搬機を細々と製造していたのがボーイング社です。
線香店であった 「 らん月 」。関東大震災の後、肉料理店として開店、現存も銀座で開業している。流石に東京大空襲を逃れる術は知っていたようです。例えば冷蔵庫自体立派な耐火建築でしょ。