遺書代わりのブログ

2025年。元気で生きていたい。

上杉鷹山


上杉家120万石から15万石になっていたが武士の数は減ることがなく、家族を含め4万人が15万人の都市に犇めいた。1800年頃上杉鷹山が経済改革を行った。
倹約令や法律の改正ではなく、産業の実践・実行でなおかつ儲けることだったように思う。儲ける生産は難しい。             有り余る武士を開墾開拓に使い桑を植え養蚕製糸、そして絹織物は女性が担った。さらに水溜りで鯉を養殖、餌やりに老人と子供が当たりました。試行錯誤はありました、人の反対もありました。  
明治になり近隣藩没落の中で、山形牛、絹織物、鯉料理は今日まで生きています。
鷹山は一代で借財返却したとも、明治まで残ったという説がありますが、大幅に返済したのは確かなようです。

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