遺書代わりのブログ

2025年。元気で生きていたい。

奉天

この頃、高校の卒業式が多い。日露戦争時の最終戦の奉天会戦( 1905.02.21~03.10 )に勝利した戦前の陸軍記念日でした。


日本軍・24万人、ロシア軍30万人、という稀に見る大規模会戦だったようですが、日本軍戦死者16000、ロシア軍は9000ですが、行方不明が28000( 捕虜22000 )、少なく見積もっても大激戦だったようです。 あまり、データー的には示されることはありませんが、機関銃の有無が明暗が分かれたようなところがあります。 日本にとってガトリング砲からの経験と研究が進み、ホチキス社のライセンス購入から国内生産が僅かにロシア軍より早かった、ロシア軍のライセンス購入の遅れが国内生産が間に合わなかったようです。数量的には日本軍90丁。ロシア軍60丁ですが、弾丸生産となると天と地程だったのでしょう。


無線機もマルコニー社のものは高く、仕方なく日本国内で作りました。予算は1⁄ 10だったといいます。    おまけ。無線機開発の中に咸臨丸渡米奉行の木村摂津の三男坊がいました。

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