島流し
時代によって異なるが、伊豆や四国、それに九州太宰府は充分な流刑地だった。まして島部ならば完全地域だった。当時、島流しは死刑を意味した。( あまり政治的小物がいないも気になりますが?) 何故か従者を伴って行ったのが興味深い、開墾して食物を作るには一人では難しかったのだろう、それにデスクワークがやっとの地位の人だったのだろう?
崇徳天皇、後鳥羽上皇。源頼朝に至っては男一人の寂しい住まいを連想しがちだが身の回りの世話人はいるは、馬までいた。 江戸所払いといっても後楽園以北のことで、現代のように新幹線や車両を思い描いてはいけないのです。
宇喜多秀家は死罪を免れ八丈島に流刑されましたが、関ヶ原参戦した人々より長生きしていました。途中、罪が許されようとしたが秀家は拒絶して島で歿している。
終戦直後、亡母の嫁入り道具の一つ ?? 一人息子、孫二人も男、約80年間は木彫りの小さな雛人形が守り神。 忠臣蔵の浪士の人形が現存、岩手県花巻に沢山現存する雛人形、布製なので退色してるのが残念ですが、木彫り色付けは退色もなく小さくも春を迎えました。
夕食はちらし寿司と潮汁( 浅利貝みたいに小粒)。