遺書代わりのブログ

2025年。元気で生きていたい。

森鴎外

当時、文京区の高台( 現・鷗外記念館 )2階から品川沖の海がみえた。観潮楼と呼ばれ、会合・会食の場になった。( 漱石は木曜会 )腹を空かしていたであろう石川啄木もこの会合に出席している。   しかし、ドイツ料理はいいとしても、銀器はどうであったのだろうか?この頃、製造販売していたのだろうか、多分箸を使ったと思うのだが。


鷗外19歳で東京大学医学部卒業すると、陸軍に入りドイツに官費留学・・・学制が今と異なるが、天才の評判が高かったという。ただ顕微鏡で病原菌を見て以後加熱したものでないと口にしなかったという。焼き芋、天麩羅は良いけれど、寿司は駄目だったろう。


惜しむらくは “ 脚気 “ の病原菌を探していたことだろう、海軍では無関係の病、どお考えても海軍を見るとか調べようともせず、固い頭の持主だったかもしれない?  天才・・・



明日からまるで梅雨に入ったように天候は良くはありません。 急ぎ薩摩芋の苗を移植しました、あまり移植したくはなく直に土に植えたいのですが、豆類の順番待ち。少し大きな苗だったので根付きは良かったのですが、移植は自信が持てぬまま終了しました。( ヒョロヒョロしたのが菊芋ー生命力は強いものです。これで5m位伸びるんです。)

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