遺書代わりのブログ

2025年。元気で生きていたい。

小学生の頃、養蚕農家が周囲にたくさんあったのでしょう、インク瓶を入れた小さな紙箱に蚕をいただきました、国語の教科書でざっと学んだ程度でしたが実験とか日記にならなかったのは私の方が少数派だったのかもしれません。父の務める工場は野麦峠・女工哀史に出てくる会社の末裔、繭玉や糸巻きが工場の隅にあった。  秋口には蚕もタバコ程に成長、葉を食べる音も雨音ほどになり、やがて繭玉を作った。ゆうに100個以上あった。繭玉一つに1000mの糸( 何本くらい撚るんだろうか?) やがて繭をとかし繭玉から出て2時間ほどで蝶になる。半世紀たって息子達は、宿題ワークになった。今度は桑の葉探しに一苦労したがそれでもありました。


300年前は、日本の金銀が流失の要因になった生糸、養蚕製糸業が明治初期から輸出品となり戦争が終わる80年前ピークを迎えた。今は贅沢品になってしまったが、それにしても八王子は織物で元気だった。           品物が変わっても街は活気が有った方が良いのだ。

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