遺書代わりのブログ

2025年。元気で生きていたい。

河井継之助ー2

河井継之助は人との会話を遮り自説を曲げない人でもあったようで、これが災いとなって北越戦争になり、長岡は戦災に遇った・・・そう思っていた。
新政府軍と小千谷談判は30分足らずで決裂したといいます、相手側の指揮官が20歳底々、何より要求軍事供託金が3万両 (  60億円、長岡藩の一年分予算 )でした。


この時、見かねた隣藩が米百俵を送りましたが、長岡藩は直ぐに売却し開校したということです。600万円程の金額でした。  一俵とは何食分かというと、360食(4ヶ月分)です。百俵ですから36000食、人口74000人の長岡ではお握り一個分のみで終わりです。


河井の墓が傷付けられるほど当時長岡では悪人扱いされたようです。  武装中立と言っても河井以外理解できなかったと思う、3万両寄付して明治新政府の中で事業をすれば成功したかもしれない、河井継之助は42歳で戦死しています。


おまけ。                      昨日朝、 辺りが白くなった。でも直ぐに消えてしまった。一週間前タイヤ交換したので何となく奥方様の表情が頗る良い。  夕方空を見ると月を望むことができた。2日程前から出ていたのだろうが雨や雪で遅れたのだろう。半月だろうか?

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